真実の探求Ⅲ 〜そして伝説へ〜

密教行、活元瞑想行などしながら書く日記

修行記録

今日このあと伝法を受けに行く予定で、今一休みしながら書いている。


昨日初めてコーヒーの粉を買って自分で入れるようになったものの、いまいち美味しくなくてどうしたものかと思ってる。
今まではドリップパックで淹れていたのを、なんとなく粉を買ってみてしまった流れでそうなったが、パックとたいして変わらず残念。


修行という点からは、たぶんコーヒーは良くないと思っている。
特に自分はお腹が少し乱れるのでやめた方がいいのだろうけど、
それでも一息つく気分的なやすらぎが得られることの方が大きくて、それで飲みたいと思うのでやめずにいる。

やめることの必要性が大きくなればその時には必ずやめたい、やめようと思うはずなので、そうなるまでは無闇に制限はかけずにいる。



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修行ということで制限、制約のかかることもいろいろやってきてみて思うが、
なんと言うか、合理性を欠いているやり方での制限制約というのは良い結果を産まないと感じる。

最近、聖職者の性的虐待のことがニュースに上がっていたが、いい例かもしれないと思う。
中身の無い、外箱ばかりを形式的に飾られた立場というものでこんなことになっているんじゃないかなあと思った。

要求は出どころ、出しどころを失えば、より複雑な表現となり、かつ抑えつけられた反動で出ようとする勢いも増す。

あたりまえと言えばあたりまえのことだが、かけた制限がただの抑圧にしかならないんだったら、それを続けた後どうなるのかは目に見えている。
キリスト教の聖職者だけでなく、仏教界にもそうしたものがあるとダライ・ラマも認めていたそうである。
外箱の飾り付けを重んじて結果的に普通の人より陰湿な欲求を育ててしまったのでは、それで聖職者も僧侶もなにもないように思う。



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神様ごとや修行の世界では特に、裏側にはこうした形式だけが独り歩きをしたことの弊害がいろいろあるだろうなと思う。

修行で使う制限というのは本当はもっと合理的なものであると思う。
それは要求を変えてゆくための手段であって、利用する一つの方法である。
制限そのものが絶対的なのではない。

密教の密、この「秘密」の部分をいろいろ知ってわかってきたのだが、
秘密の方法≒要求を変えてゆく合理的な方法、とも言える。
それは決して意志の力、心の力だけで無理やり変えるというようなものではない。


活元運動もこの要求を変えてゆく合理的な方法と言える。

意志の力で要求を抑え込んでいるだけというのは不自然極まりない状態である。


やっぱり自然で無理がない、「中庸」が大事だと自分は思う。
この中庸ということを大事にしながら修行も進めて行きたいと思う。
結果的にはそれが一番道を踏み外すこともなく遠回りにもならない確実な道になる気がする。