真実の探求Ⅲ 〜そして伝説へ〜

密教行、活元瞑想行などしながら書く日記

修行日記

ここ一、二ヶ月になるか、心に一つ大きな変化が訪れている。

今まではさんざん執着、執念に生きてきた自分だが、
そのある強い執着から解き放たれるかのような心の変化を感じている。
もっとも、まだまだこれからどう変化してゆくか、本当に解き放たれるのかわからないが。



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心身や身の回りの状況の変化に合わせて、来月にまた次へ進む伝法の予定を入れた、がスムーズに行くのかはわからない。



このしばらくの間、心の滋養を大事に過ごしていた。

過去を振り返っても、自分がいつも陥りやすいのが、とにかくやらなければと数や時間をこなすことに意識が傾いて、傾き過ぎて心のあそびが無くなってしまう。
やる気になった初めはいいのだが、だんだん日常がマンネリ化したり気持ちが疲れてきても、やる気になってる時と同じだけこなそうとしたり、あるいはそれ以上もっとやってやろうとなったりするのだが、
気がつくと何も愉しめなくなっている。

何事もそうだと思うが、継続するには愉しめることであり、心地よさ、快感がなければ継続は出来ない。そして発展も見込めない。

これはストイックで堅苦しい印象もある、修行というものでもやはり同じである。


修行というと大概は積極的に苦に向かってゆくところがあるが、
それはあくまでもその先にある心地よさや快感のためである。決して苦しむことやガマンすることそのものが修行なのではない。

理想は悟空です。
悟空は苦しい修行でも常に愉しんでいるように見える。
オラもっと強くなりてえと、強えやつとやってみてえと、それだけで苦も苦と感じていない。クリリンヤムチャだったらそうはいかない。



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悟空のようにはなれないけど、もっと心地よく愉しめるように修行に取り組む必要があるなと思う。
こういうところが自分は下手であり、旧時代の意識の人間だなと思う。



体癖としても自分は左右捻れが強くムラっ気がある。
修行にも、もっと緩急とあそびを上手く使うように考えたほうがいいのかもしれない。
過去のブログを見返すと、修行をしたくない考えたくない、という感じになってる時が度々みられる。

魔女の宅急便で、キキが空を飛べなくなってどうしようってなったときに絵描きのウルスラが言っていた。
そういう時はジタバタするしかない、描いて描いて描きまくる。それでもだめなら何もしない、と。
何もしないで他のことをする。そのうち急に描きたくなるんだよと。

あれは駿さん自身がきっとそうなんだろうなと思う。



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自分も似たような感じだなと思う。行果がなかなか出てこなかったり、心身の滞りが大きくなってきたりすると心の見えないところで焦りが出てきて、ジタバタして余計に行を課すようなことをやり始める。
が、結果的にはドツボにはまっていくことが多い。

もっと上手いタイミングでドツボにはまる前にあそびを入れられた方がいいのかもしれない。



今ここで変化を感じているところの、執着執念からもし解き放たれたら、
もっと楽に愉しめるようになるだろうか。