真実の探求Ⅲ 〜そして伝説へ〜

密教行、活元瞑想行などしながら書く日記

ご利益

仏教で言うところの利益とは、

本来は「悟りへの実益」とでも言うところを意味している。


一般的な現代人の多くの人が思っている、解釈している意味はと言えば、

望みが叶う、
何かが上手くいく、
欲したものが手に入る、
厄災を回避する、とか、
嬉しい何かが降ってくる、とか、
そう言ったニュアンスが多いのではないかと思う。


間違いとも言えないわけだが、

それが最終的に、その人の進むその人にとっての悟りへの一歩、あるいはその助けとなっていないと意味がない。




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あれが欲しいこれが欲しいと、人間は欲することばかりであるが、それは肉体を持って物質世界で生きる人間の本性ではあると思う。


煩悩即菩提という言葉が云うように(解釈も多数あるが、煩悩それ自体もまた真理の一つの顕れであり、煩悩があるが故に悟りへ至る心も呼び起こされる。いわば煩悩が悟りへの道標となる)、
欲することそのものは悪いことでもなんでもない。欲することによって人は生かされている。
野口先生はこれを「要求」という言葉で言っている。要求が無くなった時に人は死ぬのだ、と言われる。



病気と言うことで言うと、

多くの人は病気であれば治った方がいい、病気などは無い方がいいと考えるのであるが、
悟りへの実益という点からはそうとはならないことが実際にはいくらでもある。


健康も、奪われた方が利益(悟りの実益)となることはいくらでもあるのである。

病を経過して行く、あるいは越えて行く過程で心の成熟に飛躍を遂げる人も少なくないだろう。
そのまま死へ向かう場合、病によって成仏の準備が整うということもあるだろう。
何を利益と言えるか、何が利益となるかは簡単にはわからないし言えない。



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そもそも病気の原因は、そのもっとも本質的な因はその人自身にある。
それはその人が悪いのだ、というのではなくて、根っこの因はその人自身が負っているものなのだということ。

もちろんその人が悪くて、というか間違っているからそうなっていることも沢山ある。
今までの、そして今の生活態度や生きる姿勢が歪んでいるからそうなっている、というのも大いにある。


そうした部分は、その人が自分で造っている歪みを正さない限りはどうにも改善しない。
歪みを造っているのが自分の力ならば、それを正せるのも自分の力である。

他人の力、外部からの力だけで正されたところでそれは一時的なもので終わってしまう。そのうちにまた自分で歪みを造ってもとに戻る。


結局は自分の力の使われ方、心の使われ方が変わらない限りはその因が取り除かれることはない。

自分でその因に気づいて、自分でその因を取り除いて行ける、修正して行けるのがベターであるし、
結局はそれが自分という存在の根深いところを知っていくことにもなり、自分の悟りへの歩みということにも深く関わることになる。



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自分で自分のことを気づけるのを、自覚する、というが、これも利益と同じで元は仏教用語である。

それは自ずから覚る(さとる)の意味であり、
すこしわかり易く表現するならば、

それは大いなる悟りという高みへ登る、その階段の一歩、一段とでも言えはしないか。


自分で気づくことで、人は変わることができる。
自覚してはじめて変わる。

というか、気づいた(感じた)時には既に変わっているのだ、と野口先生は仰る。たしかにそうと思う。


とくに間違っているものや歪んでいるものは、自覚されるまでなかなか正しい方へは変わって行かないものである。
いわゆるクセというか、習慣づいてるものは習慣づいたままに進んでしまう。



悟りを得る、とはとても大きなことだけど、
そこへ至って行くのは基本的なこととして先ず自分のことをよく知って行くことじゃないかと思う。


野口先生の言うように、人は満たされようとして生きてる。

満たされること、満足することを追いかけてる。
それが肉体的なものであれ精神的なものであれ、
一時的なものであれ、もっと永遠なるものであれ、

要求を満たすために生きてる。


そして欲するものを求め、探し、追いかける。

それがすぐ側にあるものでも、遥か遠くにあるものでも、
あるのか無いのかわからないものであっても。



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自分が何によって満たされるのか、
如何にすれば満ちるのか、


満たされようとする要求を道標に、

欲することにより、

一つずつ、一歩ずつ自分のことを知って行ってる(その人なりの一つの悟りへ向かっている)のが人生のように思う。