今日の日記
しばらく書いてなかったので少し日記として書こうと思う。
相変わらず断捨離、というか捨と離を進めている。
仕事と瞑想行の合間で徐々に進めているけど、次から次へと処分したいものが出てきてなかなか終わりが見えないところである。
今まで、これまでの半生、あまり過去をきれいに整理整頓するようなことはなかった。
まあ若いうちはえてしてそういうものだろうと思うけど、やはり先のこと、前方ばかりに意識が行くもので、過去を振り返って清算するとかは無かった。
今自分は一つの区切りのタイミングにいるのか、まるで終活をしているかのような気分にもなる。
過去の想い出の物と一緒に、その想い出も灯篭流しのような感じでありがとうさよならと大河か大海原へ流しているような、そんな感じである。
今の暮らしでの物だけでなく、実家にもいろいろ過去の物を残して来ていた。
今まで片付ける気になることもなかったけど、実家にたまに足を運んで片付けをしている。
実際両親はもう完全に老人で終活をしている。家の中もいつの間にかだいぶ片付いてきている。
戦後を生きた世代だからかとにかく物が捨てられない父親だったけど、臨終を見据えるようになったのだろうかずいぶんきれいに片付いたものである。
お迎えが来る前にきれいに片付けといてくれれば後々処理するこちらとしてもありがたい。
もう自分も今後住むアテのない実家であるから、何にしても自分の残した物もきれいに片付けて空にしないとなあというところである。
捨てるわけにもいかなかった物、楽器とか書物とかも良さそうな縁を感じるところに買い取りを頼んだり、
想い入れの強かった物、要するに執着の強かった物も手放していっている。
そういう執着の強かった物と自分自身が見えないところでよくよく繋がっていたのが、手放そうとする時になってみるとよくわかる。
ずっと忘れていたのにいざ手放すとなると、惜しむ心が出てきて迷う。
懐かしい想い出とか、失くしてしまうのがもったいない気持ちになる。
でも不要な物はいくら残してても仕方ないので手放す。
立つ鳥跡を濁さず
で、何処へ飛んで行こうというのか、、、わからない。
ともかく、今は先ず過去を全部片付けると決めたから、そうする。
おもしろいもので、もう自分の物ではない、と意識下で手放しが済むと自分とその物と繋がってる見えない糸が切れる。
逆に言うと、これは自分の所有物だ、というのが意識下で働いているものは自分と繋がっている。
結界を張ったりするのに、仕上げに術者の意識を使うというのはたぶん多いと思うが、
術者の意図(イメージ)、意識下での思い込みで完成させる。
普通の人でも、住んでる家とかではその人の意識下の思いによる、その人の意識の結界みたいなものが多少なりとも働いてる。
感覚の鋭い人なら空き巣が入り込んだら遠くにいても気づくなんて人もいるかもしれない。
自分はどうかわからないけど。
そんなこんなの梅雨の最中、洗濯物があまりに乾かなくて困ったので急遽、除湿機を新たに導入することにした昨日今日である。
今日の日記
夜勤明けから日中気分転換に少し池袋をプラプラした。夕食を食べ書いている。
最近ドラえもんが気に入ってこんなのも買った。
高級な革製品とかより可愛くていいね。
少し前から断捨離の時期を迎えている。
過去の物、執着していた想いなんかを捨てている。
これまで生きた半生とはお別れして、新しい世界に行こうという気持ちになってる。
懐かしい思い出の品も、もういいか、とぜんぶ処分している。量は多くないけど、結構時間もかかって大変である。
今まで生きた苦の人生、苦の世界から旅立とうとしているようにも思える。
初めて味わう気持ちで自分でもよくわからないが、なにやら魂が目覚めようとしているような感じがしている。
苦しみを捨てようなんて、実は考えたこともなかった。
苦しみから逃れよう、避けようとしていたことはあった。昔はそうだった。
それが、逃れられないから苦しみ抜くしかない、苦しみ抜こうに変わった。
自分の人生にはそれしかないと思ってた。
それが、予想しなかった形で苦を捨てる気持ちになっている。
もう、十分味わってごちそうさまという気持ちになっている。
こんなのは覚えてる範囲で初めての気持ちである。
これが覚醒への道?解脱に向かう?
もしかしたらそうなのかもしれない。し、違うのかもしれない。
修行記録
一昨日火曜に伝法を受けた。
今回は仏陀、悟りを得たゴータマシッダールタとの繋りを深める行となる。
悟りを得たブッダは、当時人々からマハーナーガと呼ばれていたそうである。
意味は偉大なる龍との意味であり、ブッダと龍は非常に関係が深いということである。
ブッダと龍にまつわる特殊な法物を使い行を進めてゆく。
話変わって、今日は伊勢屋(和菓子屋)の赤飯や海苔巻きを買って食べた。
そこの店のものは本当に美味しい。
仕事がすごく丁寧で、真心を込めて作られてるのがよくわかる。
素材以上に美味しく作られている。
作っているのはもう老齢のとても優しそうな方で、作るのはほとんど一人でやっているように窺える。
伊勢屋は他にもあって他でも食べたことがあるけど味は全く別物だった。あんまり美味しくなかった。
料理は作り手の心で大きく味が変わるというのがよくわかる。
技術以前の作り手の持っている、あるいは出している気が影響を与えている。
下手な人が作ったものは食べて気持ち悪くなってくることもある。悪いエネルギーが込められてしまっていることもある。
「手作り」といったら機械より良いとは限らない。
機械のほうが無機質だけど変なエネルギーは入ってないのでその方が良いこともある。
おにぎりとか巻物とか寿司とか、特に素手で触れながら作るものはてきめんに現れる感じがある。
やっぱり愛情の籠もったもの、真心の籠もったものが食べたい。
相互運動
一月前くらいから活元会で相互運動をするようになった。
会でやっているのは2人が組んで背中合わせで正座して行う形である。
整体では背中が表と言う。
普通は顔のついてる方が表と思うが、整体的には背面の方がその人の全てが映っている表面になる。
背中、表と表を付け合わせて活元運動を行う。
相手と感応して、一人でやるのとは違う良さがある。
今日も活元会でやったのだけど、意外なことを感じた。
何回かやってみて、対人の恐怖が薄くなって行く感触を味わっている。
自分は昔は人が怖かった。
一時期軽度の対人恐怖症のようになってたこともある。
今では普通に人と接してるけど、慣れない人や、人がたくさん集まるような場は苦手で人一倍緊張する。
心の底にまだまだ恐怖心が強くあるのは自分でもよく分かっていたのだが、
何人かと相互運動をして気の交流をしているとそれが和らいでいってるのを感じているところである。
ふと思い出したのが、
昔オーラの泉で須藤元気さんがゲストで出た。
江原さん三輪さんに、心の底にある人に対する恐怖心と抵抗感を見抜かれて、
江原さんにちょっとそれ和らげましょうみたいなこと言われて、たしか3人で手を繋いで気の交流みたいなのをやってた。
たぶん愉気のようなものだったのだと思う。
これからも相互運動は会でやっていくと思うので、
これでもっと和らいでそのうち無くせるのかもしれない。
人に対する恐怖心は、人との愉気で癒して行くのが一番いいのかもしれない。