気配
この前神社の水溜りでメジロが水浴びをしていた。
なんとなく写真を撮ろうと思って準備すると、準備してる間にもすぐ警戒して水から出てしまう。
結局水浴びてる姿が撮れなかった。
鎌倉の円覚寺ではリスがよくいる。
それも写真撮ろうとすると、摂る前に警戒されてしまっていいのが撮れない。
気を配る=気配であるが、野生動物の敏感さ、気を配っている範囲、センサーの働く距離感とかは流石だと思うばかりである。
こちらの心、意識の移り変わりをかなり遠くからでも感じ取っている。
人の意識が自分に向けば即座に反応して警戒態勢に入る。
できるだけ意識を逸らして写真を撮ろうとしても、やっぱりだめである。
こちらの気を全部読みとられてしまっている。
自分も修行をしてきて以前よりずいぶん敏感になってるものもある。
こういう動物のように、人の気持ち、心の状態を気で感じとるのとかは大分鋭くなっていると思う。
野口先生は、夜中にパンっと手を叩いて内弟子達を起こして、突然そのまま講義を始めたりなんてこともしてたそうである。
野生動物のように、夜中でも物音一つでパッと起きてすぐに動き出せるようでなければいけないという、
そういう野生の感覚と敏感さが研ぎ澄まされて使えなければいけないと言うのが野口整体で、弟子の人達は苦労して身につけていたという話である。
古流の剣を受け継ぐ黒田鉄山先生のおじいちゃん、黒田泰治鉄心斎先生は子供の頃、
凶暴な犬に襲いかかられた次の瞬間、気がついたら犬の首がそこに転がっていた。
自分で意識するよりも速く、抜き打ちに斬っていたそうである。
日本の古流の動きの世界ではそういう、現代人が考えるような意識的な動きではなく無意識の動き、野生の動きとして具わっている運動機能を練磨していたようである。
人間の持つ動物としての野生の動きを日常的な意識的な動作にまで昇華して、意識動作と無意識動作を一体にするような、そういう訓練が型を中心に為されていたようである。
ものすごく速い反射神経の動きみたいな感じだろうか。
そしてそれが何時でも発動できる、日常動作としてコントロールできる状態になっているという感じだろうか。
そうなると使い手は不意をつかれたからと言って、それでも相手よりも速く反応して先に斬っているというようなことになる。
暗殺も当たり前だった時代に不意をつく、奇襲をかけられてアンフェアだとかは言っていられない。
奇襲さえも返り討ちにできる力であり技でありが練磨されなければならなかっただろう。
野口整体もこういう古流の武の世界で培われていた動きやエッセンスを一部継承しているものと思う。
活元運動はまさにその野生の動き、野生の機能の働きを育てるものである。
気配に敏感であるというのは野口整体では良いことであり重要なことである。
現代の人間社会で生きるにはあまり敏感になると苦労する面も大いにあるが、
修行者としてはより敏感になって行くしかない。