合気
合気道の合気の話ではない。
先日、以前たまに立ち寄ることのあったうどん屋さんへ久しぶりに行った。
雰囲気的には近頃のラーメン屋ぽい感じの夜は居酒屋の店である。
久しぶりに立ち寄って食べてみたが、
店の雰囲気も、うどんの味も、以前はそこそこ美味しいと思ってたのが、全然合わないと感じるようになっていた。
この一二年で自分の浄化も進んで、大分合うもの合わないものが変わってきている。
合う合わないがはっきりしてきているのも感じていたところである。
うどん屋さんは雰囲気も味も粗く雑に感じ、もう合わなくなってるんだなと思った。
食べる物も、使う物も、行きたい場所も、以前に比べると波長の高いもの気の繊細なものを往々にして好むようになっている。
心と身体の要求がそう変化している。
こういうところも修行によるところが大きいか。
この前鎌倉に行った時にも感じることがあった。
世話になってる仕事仲間にたまにはお土産でもと思い、散歩しながら選んでいた。
あの人にはどれがいいかと考えながら、結局まめやさんの豆菓子と他お菓子を買っていった。
手渡してみて、予想通り合うもので、よかった。われながらナイスチョイスだったなと思った。
今ではちょっとした贈り物とか(めったに無いが)、相手の気と合いそうなものを選ぶようになったから大ハズしすることもなくなったけど、人の気持ちを慮ることのできなかったもっと若い頃はありがた迷惑なこともしてたなあと、ふと思い返していた。
自分の良かれを押し売りしてた頃もあったなあと。
若さ故と思うが、人間大人になり齢を重ねたら我が儘(我の良かれと思うまま)は捨てて行きたいものである。
いい大人になっても我が儘を言ってるやってる人をみて、可愛げはなかなか感じられない。しょうもねえなと思う。
子供や若い子がやってるなら可愛くも思えるが、やっぱり齢を重ねると共に人は成熟していくべきだよなと思うものである。
ともかく、気の合う合わないというのは大切なことだと思うところである。
いくら良いものでも気が合わなければなんにもならない。
野口先生も若かった頃は、気の合わない人が来るとそれだけの理由で断っていたそうである。
そんなことをする治療家もなかなかいないと思うけど、
全身全霊、本気で相手と接する以上気が合わないというのはそれだけ大きなことだったのだろう。
六根清浄の祓い
六根=五感+意識(心)
を祓い清めるマントラ、
さんげさんげろっこんしょうじょう(懺悔懺悔六根清浄)を繰り返し唱える。
山伏が山歩きをしながらよく唱えるマントラである。
普段は瞑想時以外はあまりマントラは使わないけど、最近は六根清浄の祓いだけは唱えることがある。
あまり良くない意識の状態の時、どうでもいい雑念(鬱滞してる良くない感情)が頭に浮かんでなかなか離れなくなる時がある。
活元や瞑想をしっかりできない時にはその状態のまま時間を過ごすことになってしまうのだが、
そんな雑念にとらわれた状態で長くいるのは良くない。自分にも周囲にもいいことは何もない。
そういう時に、何かをしながらでも六根清浄の祓い詞を唱えているのが悪くないなと感じている。
雑念のエネルギーが振り撒かれてしまっているよりははるかにいいし、ある程度意識も整ってくる。
しっかりと腰を据えて瞑想する時以外で、日常なにか活動をしながらマントラを唱えることは普段はあまりしない。
深い瞑想状態に入れる準備の整わないところで散漫な気持ちでマントラを唱えてもエネルギーはそれなりに動く、が行果にはならないし、
それで活動自体も散漫になって結局全部中途半端になるからそういう使い方はしなかった。
でも状態によっては、時と場合によっては活動しながらこういう祓いのマントラを黙念するのもいい時があるんだなと思っている。
懺悔懺悔六根清浄、わかりやすい日本語そのままのマントラであるので、意味を解する日本人なら誰が唱えても祓いの力は働きやすいと思う。
意味としては要するに、禊祓いのマントラである。
マントラは音そのものの力であるという面もあるから、意味がわかってもわからなくてもエネルギーは動く。外国人が唱えても動く。
が、日常使われる言語の方が意識下でよく働きやすいことは確かにあると思う。
日本人が、心身を清めるつもりで唱えるのにいい詞である。
今日の日記
昨日はまた鎌倉のお寺に雨降りの中参詣に行ってきた。
二三日前は花粉症がひどく、今年も花粉がやって来たなと思っていたところ、雨降りだからこそゆっくり気分転換、散歩しに行ってきた。
びしょ濡れになった靴下をコインランドリーで乾かしながら、静かな住宅街をウロウロする。
梅の花があちこちで咲いていて、春だなと感じる。
どうしてあっちまで行って散歩をしたくなるのか、
なにか魂の縁があるのか、ただ気が合うからか、他の理由か、わからないけど、まあどうでもいい。
最近の勉強はもっぱら歴史のことばかりやっている。
現実の薄汚いドロドロの中身である。
きれいも汚いも丸ごと、ただ真実を知りたい想いだけでやっている。
霊的世界を知ることで、現実を知る。
現実界を知ることで、霊界を知る。
この世は「うつし世」と言う。
あの世(霊界)を映している世界だと言われる。
この世を陽としたときあの世は陰であり、陰陽☯表裏一体になる。
双方知って、より真実の様相は見えてくるのだと思う。
真実の歴史は、人の持つ悪性をこれでもかとばかりに炙り出している。
人のしてきた悪逆非道は凄まじい。
でもそれを知って初めて、
人の持つ善性の尊さ、
この濁世にあっての善性の使う術を知れるのかもしれない。